100年をこえる企業として

株式会社大村総業は2020年5月に創業118年を迎えました。
明治時代の創業から令和の現在までの長い歴史の中で幾多の困難に遭遇しましたが、今日まで事業を継続することができましたのは、ひとえに長年支えてくださったお客様からのご指導ご鞭撻、そして社業の発展のために皆で力を合わせ努力を惜しまなかった社員の方々の協力によるものでありますことに、心より感謝申し上げます。

  • 全文を表示

    1世紀以上に及ぶ歴史を振り返ります時、当時では大変珍しかった女性社長として、困難を乗り越えて創業をした大村ちゑの存在はとても大きなものです。
    株式会社大村総業のルーツは古く江戸時代に遡ります。当時、駿河国(現静岡県)と甲斐国(現山梨県)を結ぶ日本三大急流の一つである富士川は、幕府直轄であった甲斐から江戸への廻米や生活物資の輸送で水運が発達しました。大村家は代々主たる水運業者の一つとして、重要な役割を担っておりました。ところが、明治時代に入り幕藩体制の終結により廻米輸送はなくなり、鉄道が整備され水運も衰退してきました。この動きをいち早く察知したのが、大村総業の創業者大村ちゑとその夫市太郎でした。ちゑは両親を早くに亡くし、長子として6人の弟妹の面倒をみるという責任を一身に背負いながら、家業も続けなければなりませんでした。「これからは富士川を相手の商売ではなく、海運、陸運に挑戦し、世のためになる事業を始める。」という高い志を抱き、日本の貿易の玄関口である横浜に進出し、1903(明治36)年5月に大村組回漕店を設立しました。

    創業者大村ちゑが残した経営に対する考え方は、現在も継承されております。明治時代、男性中心である物流業界の女性社長として、横浜港に仕事を求めて集まってきた多くの人々を束ね、横浜港と港湾業務の発展のために、市太郎と共にちゑは奔走しました。第一次世界大戦、第二次世界大戦も経験し、戦火の中でも「社員の生活の安定と幸福・世の中の役に立つこと」「お客様と社員が会社の財産である」を経営理念に掲げ、男性と対等に仕事に取り組み、海運だけでなく、鉄道、自動車輸送にも事業を拡大していきました。一方で戦争未亡人を積極的に雇用したり、女性として常に周りの人々への暖かい眼差しと、思いやりを忘れなかったちゑでした。ちゑ夫妻はたくさんの困難に遭遇しながらも、会社を着実に成長に導いてきた矢先、1931(昭和6)年に市太郎が急逝するというちゑにとり最大の危機に直面しましたが、明治生まれの女性経営者としての強い信念を貫き、市太郎亡き後も事業を続けました。

    その後、ちゑが産み育て守り抜いた事業は、創業から51年目の1953(昭和28)年、ちゑの実弟大村隆三と義弟の石井啓三が静岡県富士市に株式会社大村組を設立することにより、引継がれました。大村隆三と石井啓三は、ちゑと市太郎が灯した明かりを消すことなく事業を継承する覚悟で、社員たちと共に、「お客様と社員が会社の財産」というちゑの経営に対する姿勢を守り、社業の発展のために一致団結し全力で業務に向き合いました。この2人は、「人を育てる」ことに特に力を入れ、社員の中から社長を任命し、自らは陰から社員の成長と事業の発展を見守り、困難な事が生じた時には常に手を差し伸べることに徹しました。社会が困っていること、不自由に感じていることを迅速に察知し、「お客様の痒いところに手が届く」ことができる企業でありたいという想いは、創業者ちゑの願いであり、大村隆三、石井啓三からその息子たち大村忠男、石井康雄、そして歴代の社長に引き継がれ、今日まで継承されております。

    目まぐるしく変化していく現代にあり、これまで会社が歩んできた道のりを振りかえり、その歴史から学ぶことは大変重要だと感じます。特に明治、大正、昭和を跨いだ、創業から60年間の苦労が現在の大村総業の根っことなり太い幹となっていることは間違いありません。この歴史を大切に、今後もお客様に支えていただき、ご指導を賜り精進してまいりますので、引き続きよろしくお願い申し上げます。

令和2年8月

代表取締役社長 等々力けい子

大村総業の歴史

1903

大村組回漕店 創立

江戸時代より富士川の主たる水運業者であった大村家でしたが、時代の流れと共に河川での水運が衰退してきた為、当時の大村家の長子であった大村ちゑが、夫市太郎と共に大志を抱き1903(明治36)年、大村組回漕店の名称で横浜市(現在のJR東神奈川駅前)に店舗を構え、産声をあげたのが、大村総業のはじまりです。

創立当初は、鉄道の貨車積み下ろしなどの鉄道運送業に従事していましたが、横浜港の発展とともに営業種目を広げ、港湾運送及び自動車運送業を併せて営み、着々とその規模を拡大しました。創業から12年目の1915(大正4)年には、横浜市本町6丁目に新店舗を開設しました。創業者大村ちゑの夫の市太郎は、味の素株式会社創業者である鈴木家をはじめ、京浜地区で事業を拡大していた企業の経営者達と親交を深め、共に横浜港の整備も含め京浜地区の産業の発展に尽力をしました。

1924

株式会社大村組に改組

関東大震災が起きた1923(大正12)年に横浜鉄道省公認取扱人となったことにより、鉄道貨車の手配、荷役、集配作業、荷為替取引業務へも事業拡大をし、また回漕店として海上輸送や港湾荷役でも多忙となりました。この頃、東京港へも事業所を創設し、事業の拡大と共に、株式会社としてスタートを切りました。

この年、海外から送られた震災の支援物資であった材木の輸入と輸送を、当時の大実業家の渋澤栄一氏から依頼を受け担当する等、横浜の海陸運送業界において確固たる基盤を築きました。1929(昭和4)年に、鉄道貨物運輸事業に特化した大村運送株式会社を設立し、横浜本社だけでなく、現在の東京新橋に支店を置き全国への鉄道輸送事業にも本格的に取り組みました。

  • さらに詳しく

    株式会社大村組、大村運送株式会社の事業が順調に進んでいた1932(昭和6)年、大村市太郎が50代の若さで急逝してしまうという悲劇が起こりました。ちゑも社員たちも大切なリーダーを失い、失意のどん底にありました。当時の大村組は横浜港の海運業、港湾荷役業では責任のある立場に成長していた為その責任は重く、創業から共に歩んできた市太郎の遺志を受け継ぎ、物流業者として横浜港の発展に引き続き貢献したいという強い信念のもと、夫亡き後もちゑは事業の継続と拡大に心血を注ぎました。しかし、男性が中心の港湾運送業、陸運業において女性社長が生き残る為には困難が多く、同業者に事業の一部を引き継いでもらう等で、事業を縮小しながら2社の経営を継続しました。

    やがて支那事変、大東亜戦争が始まり、京浜地区の工場が各地に疎開を始めました。創業以来重要なお客様であった東芝電気株式会社も1935(昭和10)年に戦火を避ける為、京浜地区の各工場を静岡県の富士・沼津地区に疎開することになりました。株式会社大村組は同工場の疎開にあたりこれに随行し、荷物の輸送、工場建設並びに機械の据え付け作業に専属で従事しました。

    引越し作業完了後1942(昭和17)年、富士地区に横浜大村組富士出張所を設立し、引き続き東芝電気株式会社富士工場の土木建設、運搬関係の作業に携わりました。その後終戦を迎え、軍事産業から平和産業への転換が行われましたが、その歩みは遅々たるものでした。やがて復興の兆しも見え、世情の回復と共に大村組も業務を進展し、1951(昭和26)年に出張所から富士支店に昇格、さらに同年11月姉妹会社として井上建設を創立し、大村組が請け負っていた土木建築工事は井上建設が担当することになりました。

1953

株式会社大村組設立

夫の市太郎亡き後20年以上会社を守り抜いた大村ちゑでしたが、女性社長としての限界もあり、横浜港での港湾業務や鉄道輸送の中心的企業であった全盛期よりも事業を大幅に縮小という状況に陥りました。当時の主力事業は、昭和10年に東京芝浦電気株式会社の富士・沼津地区への疎開に随行して以来携わっていました、東京芝浦電気株式会社富士工場・芝浦機械製作所沼津工場の土木建築、荷造り、梱包、構内荷役、輸送でした。そこで港湾事業中心でした横浜大村組から分離独立をし、ちゑの義弟である石井啓三が発起人となり、静岡県の富士市に於いて株式会社大村組として新発足をし、初代の社長にちゑの実弟である大村隆三が就任をしました。富士では東京芝浦電気富士工場の業務に従事するとともに、新設された大昭和製紙富士工場の原木取り扱い作業、さらには富士製糖とも業務提携を結び、活発に営業活動を続けました。

またこれまで静岡県沼津の芝浦機械製作所構内に作業所を設け、同社の土木建設、重量物運搬・トレーラー輸送・鋳物・荷造梱包・荷役に従事していましたが、横浜大村組から分離独立したことを機に、大村組沼津営業所を設立し、この地区における他社との業務提携にも積極的に参入しました。東洋レーヨン株式会社(現東レ株式会社)三島工場、藤倉電線株式会社(現株式会社フジクラ)沼津工場でも構内業務に従事しました。

1959

川崎営業所開設

東京芝浦電気株式会社富士工場の放射線部門が、川崎市の玉川工場に移転するにあたり、その移転作業に従事しましたが、これを機に川崎市小向西町に営業所を新設しました。
玉川工場の製品(レントゲン・医療機器)の荷造・梱包・輸送の業務を行うと同時に、富士・沼津営業所の京浜地区におけるターミナル・ステーションの役割を果たすことになりました。

1960

三芝製作所株式会社創立

東京芝浦電気株式会社富士工場の構内での作業に従事していた関係で、ルームエアコンの製造業務に携わることになり、姉妹会社として三芝製作所を創立しました。

1964

沼津営業所、富士営業所新築

事業拡大に伴い、沼津営業所、富士営業所を拡大し新築しました。
沼津営業所では、大型機械の梱包、形状が多岐にわたる工業用製品の梱包、輸送、据付、輸出業務の他、鋳造業務の請負作業も手がけ、業務内容が拡大しました。

富士営業所でも、東京芝浦電気構内の業務をはじめ、他社からの依頼も増えた為、営業所を増設し対応をしました。
東京芝浦電気株式会社富士工場の放射線部門が、川崎市の玉川工場に移転するにあたり、その移転作業に従事しましたが、これを機に川崎市小向西町に営業所を新設しました。

1966

磐田出張所設置

静岡県西部地区にある主要オートバイ製造会社数社の輸出梱包に対応するために、磐田出張所を開設しました。その後、農業機器の梱包等業務が拡大をした為、1968(昭和43)年に磐田出張所から磐田工場に昇格をしました。

1973

株式会社大村総業に社名変更

鉄道、港湾、自動車の各運送業を主体としていた横浜大村組から分離独立し、その業務内容を荷造梱包、重量物運搬、機械据付、大手企業工場内請負業務、トラック輸送と拡大をし、新生大村組創立から20年のこの年、物流に関するあらゆる業務に対応できる企業へのさらなる発展を願い、社名を株式会社大村総業に変更し、新たなスタートを切りました。

1979

大田原営業所開設

東京芝浦電気玉川工場の大田原市移転(東京芝浦電気那須工場)に伴い、当時の川崎営業所より分離し、大田原営業所を開設し、医療機器の梱包、医療機関への搬出入作業に従事しました。

1990

本社ビル新築

新しい時代「平成」にふさわしいデザインの本社ビルを新築しました。
本社ビルの北側に広がる雄大な富士山を背景に、当時では珍しかったガラスとコンクリートの調和を意識しました。隣接する姉妹会社井上建設本社ビルと合わせますと、ガラス部分が富士山の形となるように設計されており、建築から既に30年以上が経過しておりますが、現在にもマッチするデザインとなっております。

2002

横浜営業所開設

関東地域での業務拡大に伴い開設をしておりました東京出張所、川崎営業所、野川作業所を一箇所に集約し、業務の効率化を進める目的で、Y-CC横浜港流通センター内に横浜営業所を開設しました。Y-CCは横浜港の三大埠頭のひとつ大黒埠頭に立地する我が国最大級の物流施設であり、全国に4箇所あります「総合保税地域」の許可施設です。
ここでは国際物流と国内物流を繋ぎ、貨物の搬入、保管、荷捌きに加え、施設内に於ける流通加工、展示、配送等の業務を組み合わせての対応が可能です。大村総業の創業の地であります横浜、特に多くの先人社員たちが働いておりました横浜港に再度営業所を開設することは、業務面からだけではなく、会社の歴史的観点からも、大きな意義のあることでした。

2003

通関業許可証取得

創業者大村ちゑ・市太郎夫妻は、関東圏での物流事業拡大を志し、鉄道輸送・東京港及び横浜港における数多くの許可証を取得し業務に取り組んでいましたが、市太郎の急逝以降これらの許可証を残念ながら手放してしまっておりました。創業から100年の節目となるこの年に、通関業許可証を再取得し、大村ちゑ・市太郎が目指した国際総合物流会社として再チャレンジをすることとなりました。

2006

沼津営業所移転 50トンクレーン設置

需要が高まってきました超大型の梱包に対応が可能な50tクレーンを設置し、多様なご要望に応えられるように、設備を整えました。
静岡県における、数少ない50トンクレーン設置会社となりました。

2007

保税蔵置場許可取得

国際総合物流会社として、再チャレンジをするにあたり、各営業所における荷物の取り扱い体制を整備しました。
例えば、お客様からお預かりした荷物を梱包し、迅速に輸出をする為に、各営業所を保税蔵置場として税関に申請をし、許可を取得しました。保税蔵置場では、輸出の許可を受けた貨物、輸入手続きが済んでいない貨物、日本を通過する貨物(これらを総称して外国貨物といいます)を置くことができます。お客様に保税蔵置場を活用していただくことにより、貨物の輸出入通関手続きも円滑に行うことが可能となり、ビジネスにとって大切なリードタイムの短縮にも貢献できるようになりました。輸入貨物の取り扱いも迅速に対応が可能となりました。

2016

横浜営業所大黒梱包工場開設

100%子会社であった新和梱包株式会社を吸収し、横浜営業所大黒梱包工場としました。
これにより、横浜営業所のみならず、他の営業所が関わる横浜港取り扱い案件も迅速に社内で対応ができることになり、横浜営業所の輸出梱包分野を強化し、お客様に対し充実したサービスを提供できる体制を整えました。

2018

地域未来牽引企業に選定

経済産業省は、2017年12月と2018年12月に地域経済を牽引する事業の担い手候補となる地域の中核企業として、全国で3,691社を「地域未来牽引企業」として選定しました。

選定企業の91%は中小企業であり、製造業を中心に多様な業種から幅広く選定されました。大村総業は運輸業の業種で選定を受けましたが、運輸業で選定を受けた企業は全体の3.2%でした。
選定を受けたことは、地域経済のバリューチェーンの担い手として、その役割をしっかり果たす決意で業務に邁進する新たな目標となりました。

2019

AEO制度の特定保税承認者の承認

2001年9月11日、米国で発生した同時多発テロ以降、国際物流においてはセキュリティの確保と円滑化が不可欠となりました。貨物のセキュリティ管理と法令遵守の体制が整備された事業者に対し、税関が承認・認定し、税関手続の緩和・簡素化策を提供する制度が2005(平成17)年に採択されました。

大村総業では、2003(平成15)年の通関業許可証取得以来、創業当時の国際総合物流業務に取り組んでおりますが、AEOの承認を受けられたことは、次への大きなステップとなりました。

未来に向けて

19~20世紀初頭の米国の実業家でありましたアンドリュー・カーネギーは、「会社とは生き物である」という名言を残しております。人間に例えるならば、その体内に栄養を取り込み新しい細胞が生まれ、常に成長を遂げ変化していく一方で、風邪をひいたり病気になったりするのと同様に、会社もしっかりとケアーをすれば成長をし、それを怠れば業績が悪化してしまいます。人間と同様に会社にも寿命がありますが、会社はその時代に合わせて変化をする努力を続ければ、人間の寿命を超えて長く生き延びることができます。大村総業が歩んできたこれまでの長い道のりを振り返りますと、会社が大きく成長した時期、業績が悪化して大変な時期を経験し、現在に至っておりますことが明らかです。

創業の地横浜から独立をし、現在の静岡県富士市に本社を移転した当時の先人たちが残した回顧録には、「独立当初は、いばらの道であった。」と明記されております。現在のように便利な機器がなかった当時、全て手作業での物流業務においては相当な苦労があったことは明らかです。先人たちは「人づくり」「チームワーク」「工夫をすること」の大切さを会社の発展の拠り所として日々努力をし、横浜大村組からの独立から10年後には、社員数は300名近くにもなり、皆が生活の向上と安定を求め成長をし続けたことがわかります。

世界で様々なことが起こり、それぞれが自身の身を守りどう生きていくかが問われる時代の現在、株式会社大村総業は、「世界へ送る匠の技術、未来へつながる確かな信頼」の経営ビジョンに沿い、しっかりと時代に合った対応をし、次の100年をめざす覚悟で今後の業務に取り組んでまいります。創業時から力を入れております「人材育成」を更に強化し、グローバル社会、情報化社会に合った最適な方法を皆で模索し、行動に移し、「生き物」として会社が成長を遂げられるよう、今後もお客様に支えて頂き、社員一丸となって皆で次の100年を目指します。

今後ともご支援の程、何卒よろしくお願い申し上げます。